2021.07.07

  • チャリンコ通信

【チャリンコ通信】Vol.6 世紀の眠りから覚めた古木、アラウカノの見果てぬ夢

青い色の卵を産むニワトリをご存じだろうか。
青というより薄い水色と云った方が正確かもしれない。ともかくニワトリの卵は白玉か赤玉が普通なので、この青玉は珍重されている。この青い卵を産むのは「アローカナ」というニワトリで、これはチリ原産種である。アローカナはスペイン語で“Araucana”と綴り、ほんとうは「アラウカナ」と読む(と思われる)のだが、なぜか日本にはアローカナの名前で紹介されている。ロサンゼルス(Los Angeresロス・アンヘレス)やサンノゼ(San Joseサン・ホセ)と同じ仲間、つまりスペイン語の米国読みなのだろう。たぶん。

さて今回は、このニワトリの原産地、チリ南部アラウカナのブドウ栽培農家が造る、いまチリでもっとも注目されているワイン、パイスとカリニャンに纏わる話をしよう。このワイン、まだ日本ではあまり見かけない。ほんとうは「薄旨」(このごろこういう言い方があるらしい)の時代にピッタリのワインなのだけれど。

1492年、コロンブスがアメリカ大陸に到達するや、スペインはアメリカに向けて次々と軍隊を送り込んだ。その目的は金塊探しだったけれど、そのために仕立てられた侵略軍は「新大陸発見」「インディオ征服」という身勝手な理屈で、抵抗する先住民を殺戮し、彼らの土地を次々と略奪していった。さらに、これに従軍したキリスト教の宣教師は、先住民の文化を破壊し代わりに彼らの宗教をおしつけた。

その侵略軍の書いた本国スペインへの報告書の中に、アタカマ沙漠の南(現在のチリ中南部)で激しく抵抗する先住民「アラウカノ族」が登場する。青い卵のニワトリの語源だ。スペイン人が「アラウカノ族」と呼んだ先住民だが、アラウカノにはどうやら侮蔑の意味が込められていたらしく、いまはマプーチェ族と呼んでいる。そのマプーチェ族はとても強力で、インカ帝国の進出にも、それに続くスペイン軍の侵略にも抗し、自らの土地をしっかり守ったのだった。

インカを制圧したスペイン軍は、ラ・セレナからコンセプシオン(ビオビオ川河口北岸の町)までを植民地チリとしたのだが、コンセプシオンから先はマプーチェの抵抗にあってどうにも侵攻できない。それで、侵略軍が「アラウカニア」と呼んだビオビオ川以南にはマプーチェがずっと住み続け、その境界線を巡る紛争が19世紀までの3世紀にわたって続いた。このマプーチェとスペイン軍の紛争をアラウコ戦争と云い、これは南アメリカ史に残る有名な出来事のひとつである。

そろそろ本題に入ろう。カリニャンである。カリニャンというブドウは、フランスの地中海沿岸ラングドック地方で今でもたくさん栽培されている。もとはスペイン・アラゴン州の生まれで、そこではカリニェナと呼ばれ、アラゴンにはカリニェナと云う名の村もあるし原産地呼称DOカリニェナもある。リオハではこれをマスエロといい、プリオラト(カタルーニャ州)でもガルナチャと並んで有名なブドウだ。アラゴン王国が版図を拡げた時にカリニェナも拡散したようで、いまもイタリアのサルデーニャ島に残っている。

そのカリニャンが、チリ南部のカウケネスにもわずか80ヘクタールほど栽培されている。チリでカリニャンを栽培しているのはカウケネスだけだ。カウケネスはマウレの沿岸山地の中にあり、スペインの植民地時代につくられた古い町だ。スペインから独立したチリはアラウカニアを併合し、先住民マプーチェを(ビオビオ川を越えて)移住させ農作業に当たらせた。カウケネスにもマプーチェの子孫が多い。

カウケネスのカリニャンはみな樹齢が高く、スペイン由来の株仕立ての樹だ。なぜここにだけ高樹齢のカリニャンがあるのか。その理由は大地震だ。1939年、カウケネスから南へ直線距離で約80kmのチジャンを震源地とする大地震があった。カウケネスの被害も甚大で、家屋の倒壊はもとより、地割れや地下水脈の移動で16世紀から栽培してきたパイスの樹も枯れてしまったという。

パイスは大量に実を付ける品種だが色が薄く渋みに欠ける。大地震から復興事業に乗り出したカウケネスの共同醸造組合は、これを機にパイスの欠点を補える品種、色が濃くて酸味があってさらに豊産性のブドウを探すことにした。白羽の矢を立てたのは、当時、世界的に隆盛を誇ったフランス・ラングドックで、大量生産時代のエースの役割を担っていたカリニャンだった。それで1940年以降、カウケネスのパイスの畑の欠株を補うようにカリニャンが植えられたのだった。

ところが1960年以降、チリでもワイン消費が減退し、1964年から1973年にかけて進められた農地改革のせいで、カウケネスのカリニャンの存在がすっかり忘れ去られてしまった。カウケネスのカリニャンが長く放置されてしまった理由の一つ、チリの農地改革について説明しよう(ここから話が少し堅くなるけれど、大事なことなので辛抱して読んでください)。

カウケネスにカリニャンが植えられたころ、チリの農地はまだスペイン植民地政策由来の不在地主(パトロン・デ・フンド)による大規模土地所有が続いていて、耕作はそこに定住させられた先住民の小作人に任せていた。大規模農場は粗放的で土地生産性が低かった。ことに沿岸山地の中ほどに位置するカウケネスのような非灌漑地はそれがいっそう顕著だった。

エドゥアルド・フレイ・モンタルバ政権は1964年に農地改革法を制定し、生産性の低い農地の再配分を促すことで自作農を育成し、チリ農業の後進性を打ち破って経済格差の解消を目指したのだった。フレイ政権のあと、1970年の選挙で誕生したサルバドール・アジェンデの社会主義政権は、これを継承しただけでなく、生産性の高い農地も接収して国営農場とし、一足跳びに計画生産へと突き進んだ。この時、大手ワイン生産者のブドウ畑の多くも没収された。

ところが1973年に軍事クーデターで生まれたピノチェト政権は一転して反農地改革を打ちだし、国有農地の旧所有者への返還、小作農への分配、第三者への競売を進めた。現在のコンチャ・イ・トロもサンタ・リタもサン・ペドロもこの時期に再興された。みな社名と商標は19世紀の創業家を引き継いでいるが、実際は創業家と異なるファミリーが経営に当たっている。そして非灌漑地のブドウ樹の多くは抜根され、跡地に松やユーカリが植林された。非灌漑農業は採算性が低いので林業への転換を図ったわけだ。カウケネスには荒れた自家ワイン用のカリニャンだけがぽつんと残された。

沿岸山地の中にポツンと残されたカリニャンの古木。かつてはパイスの大きな畑だったが抜根し跡地に松を植林した。

その結果、農家の所得格差はいっそう大きくなったけれど、内向きだった農業政策が、輸出へと転換し、ワイン産業は急激な変貌を遂げる。そして1990年代、遅れ馳せながらチリにもカベルネ、シャルドネのヴァラエタルワインブームがやってきて、灌漑の整備されたマイポ、ラペル、クリコ、マウレ(中央平地だけ)のブドウ畑が繁盛することになる。しかし、非灌漑地カウケネスのカリニャンは樹齢を重ねただけで、依然として見放されたままだった。ちなみに1987年のマウレの農地価格は灌漑農地7,300ドル/haに対して、非灌漑農地はわずか300ドル/haだったという。

60年、70年と樹齢を重ねたカリニャンは、根が伸びて深層のミネラルを掴むようになる一方、一本の樹が付ける房の数はぐっと少なくなる。若い時は豊産性が取り柄だったカリニャンだけれど、老成して少量の房にぐっと充実度が増した。そのカリニャンの古木の潜在力を誰が初めに見つけ、ワインを造ろうとしたのか。救世主はだれか。それがよく分からない。ただその可能性のある人物は何人かいるようだ。

その一人はパブロ・モランデだ。パブロはカサブランカに初めてブドウ畑を拓き、冷涼地シャルドネ栽培に先鞭をつけたチリワイン産業のレジェンドである。コンチャ・イ・トロを辞めたパブロはラペルヴァレーに自前のワイナリーを建設して独立した。そして1996年、かねてから目を付けていたマウレの非灌漑地メロサル(カウケネスの一区画)のカリニャンでワインを造ってみた。おいしかった。1950年代に植えられたこのカリニャンは、樹齢40年を過ぎて一本の樹の収量が少なくなっていたからだ。パブロはカウケネスの生まれで、若いころから株仕立てのカリニャンの特性をよく知っていたのだという。

カウケネスの町外れのカリニャンの畑。一部、パイスの古木にカリニャンを接いだものもある。カリニャンの畑としては比較的大きいものだ。

2000年代半ば、パブロに触発された若い造り手たちがカウケネスを訪ね、放置されていた小さな畑の持ち主と交渉してブドウを買い集め、古木カリニャンのワインを造るようになった。その頃はまだ、カリニャンもパイスもサンソーもマセラシオン・カルボニクという醸造法を用いることが多かった。これはラングドックの伝統製法なのだが、これで果実の風味が際立ち、やわらかい口当たりになって、何年もワインの熟成を待つことなくすぐに愉しめるという利点がある。ボージョレのガメイはこの製法で新酒を造り、解禁日を決めて売るマーケティング手法を採用して大成功を収めた。ところが、マセラシオン・カルボニクだとどんな品種でもみな独特のバナナのような香りに覆われる。つまり、どこのブドウでもどんな品種でもみなボージョレ・ヌーヴォーになってしまう。

はじめのうちはこのマセラシオン・カルボニクを採用した造り手だったが、徐々に通常の仕込み方に変えた。カリニャンの果皮はとてもデリケートで、古木のカリニャンならなおさらだ。どのように醸造するかでワインの性格も変わる。果実味をなくすと干し草のような香り、粗く乾いたタンニンになって粗野なワインと云われてしまうし、小さな木樽で熟成するとワインはすっかり樽香に覆われてしまう。だから、木の香りの少ない古樽や大樽、セメントタンク、時には甕などで貯蔵する方法が採用されるようになった。

コノスルもカウケネスのサン・イシドロと云う畑のカリニャンで「コノスル・シングルヴィンヤード・カリニャン」を造った。サン・イシドロは沿岸山地の中の大きな畑で、そこにパラス・アンティグアスという名の100年を超えるパイスの古木の区画があった。2010年のこと、そのパイスの古木にカリニャンを接木したら味わいの凝縮した果実ができた。100年かけて土中深くまで伸びた根が佳い仕事をしている。

ていねいに果実の味わいを引き出すコノスル・スタイルはこのカリニャンにも活きている。
サクランボ、ラズベリー、プラムのような酸味のある果実の風味。バニラやリコリス、タバコの香りもあるけれど、それを赤い果実が徐々に上回ってくる。口に含むとツルっとした滑らかさで、きりっとした酸味と果実味のあとに繊細なタンニンを感じる。中程度のボディ。飲み進めると初めに感じたオーク由来の要素は気にならなくなる。すでに5年の熟成を経ているからだろうか。

チリ内陸部の灌漑設備の整ったブドウ畑は、スペイン由来の株仕立てからイタリア由来の棚作りに切り替えて大量生産の20世紀を謳歌し、ヴァラエタルワイン時代はボルドー品種に切り替え点滴灌漑を採用して復活した。一方、沿岸山地の非灌漑畑で育ったパイスの大方は生産過剰を理由に抜根され、松林やユーカリの林に変わってしまった。

5年ほど前のこと、数日かけてカウケネスのブドウ畑を見て回った。そこには灌漑事業にも植林事業にも見放され、ポツンと取り残された株仕立てのブドウ樹があった。細々と作り繋いできたパイスとカリニャンの老木。そこに激動の時代を生き抜いた貧しいアラウカノの生活が重なって見えた。

土地の古老が昔語りをしてくれた。ある時、「おたくの古いカリニャンを売ってほしい」とサンティアゴの大きな生産者から注文が入った。このごろは、涼しい沿岸山地の痩せたブドウ畑に人の目が集まり、非灌漑地の粗放なブドウ栽培が重宝がられ、そして何よりオールド・ヴァイン(古木)にこそ価値があるのだという。何が幸いするかわからない。長生きはするもんだ。

この記事で紹介したワインはこちら


シングルヴィンヤード カリニャン
シングルヴィンヤード カリニャン
カウケネス葡萄園の第7区画「パラス・アンティグアス Parras Antiguas(=古代の葡萄)」にある、樹齢200年のパイスに接木したカリニャン。はっきりとした酸味が際立った、力強く果実味豊かな味わい。

この記事を書いた人

番匠 國男

ばんしょう くにお

番匠 國男

ワインライター。ワインとスピリッツの業界専門誌「WANDS」の元編集長。ワインと洋酒の取材歴37年。「日本ソムリエ協会教本」のチリとアルゼンチンの項を執筆。1993年のコノスル創業以来、ほぼ毎年、コノスルのブドウ畑と醸造所を訪問している。フットボール観戦が趣味。週末は柏レイソルの追っかけ。海外取材の際も時間が合えばスタジアムへ出かける。