2022.11.16

  • チャリンコ通信

【チャリンコ通信】Vol.13  マプーチェの地に初めて植えたリースリング

チリに行ってきた。2年半ぶりだった。サンティアゴ空港は新型コロナの渦中に増築工事を終えて明るく広くなり、かつては延々と続いていた入国審査の待機列が、ぐっと短縮されてとても快適になった。それに比べて帰国時の羽田空港のなんと無駄の多いこと。旅客数は制限されているのに、ワクチン接種とPCR検査陰性を調べる大量の係員と迷路のような動線。これに要したであろう莫大な費用は、後の世代に付けを回すことになるはずで、なんだかなぁの思いである。




こんどのチリ訪問の目的はいくつかあったけれど、そのひとつは南部のブドウ栽培地の変貌をみることだった。チリのブドウ栽培地域は南北1,400kmにわたって細長く伸びている。これを植生の特徴で分類したケッペンの気候区分で云うと、北から順に沙漠気候、ステップ気候、地中海性気候、そして温暖湿潤気候が含まれる。この気候帯の多様さに合わせた品種選択こそがチリのブドウ栽培の最大の特徴である。  


地中海性気候と温暖湿潤気候の分岐点はマウレ川辺りで、そこから北は乾いて土の茶色が剥き出しになった大地、マウレ川より南は緑豊かなグリーン・チリである。地中海性気候区域とそれより北の乾いた土地で農業を営むには灌漑が欠かせない。ところが近年、地球温暖化の影響でこれらの地域では深刻な水不足が続いている。  

このところ、新しく開拓するブドウ畑は水不足の乾燥地を避け、雨の多い南部の湿潤地に移っていると聞いた。それを確かめに行きたかったのだけれど、ずっと新型コロナで足止めをくっていた。漸く小康状態を保ったこの夏に、思い切って出かけた次第。


はじめに、ざっくりと緑豊かなチリ南部の歴史を浚っておこう。  

海沿いにコンセプシオンという大きな港町がある。ビオビオ川の河口に広がるこの町の歴史は古く、人口も首都・サンティアゴに次ぐ第2位を北のラ・セレナと競っている。もとは先住民マプーチェの築いた海辺の寒村だったが、16世紀にスペイン軍がやってきて一変する。侵略軍はこの町を占領し、たくさんのスペイン移民を受け容れた。そして現在の市勢へと拡張されたのである。

16世紀、ペルーを南米大陸支配の拠点にしていたスペイン軍は、そこから船団を組んでチリの沿岸を南下し、格好の入り江を見つけるや、そこに船を舫い、上陸して軍事拠点を築き、内陸部へ侵入して次々と先住民を倒し、彼らから土地と黄金を略奪していった。そうした数ある入り江の中で、コンセプシオンは最重要拠点になった。


ビオビオ川の中流域。右上は天然林に覆われた中州。


コンセプシオンからビオビオ川中流域まで進んだスペイン軍だったが、マプーチェ族の強力な抵抗に遭い、ビオビオ川を越えることができない。「ビオ」はマプーチェの言葉で「大きな川」、強調する時は「ビオビオ」のように言葉を重ねる。つまりビオビオは「とても大きな川」である。その大河を前にして、スペイン軍はやむなくそこで侵略行動を断念することになる。こうしてスペイン侵略軍のチリ植民地は、北のラ・セレナ(アタカマ沙漠の南端)から南のコンセプシオンまでと決まった。そして、ビオビオ川より南はマプーチェの土地のまま、チリがスペインから独立した後の1883年までマプーチェの自治が成立していた。


この歴史をブドウとワインの視点でみるとき、鍵を握るのはイエズス会である。

軍事侵攻の後にイエズス会の宣教士が続き、征服地でキリスト教を布教する。それが中南米を侵略したスペインの基本戦略だった。イエズス会は1534年の宗教改革に対抗して組織されたのだが、その特徴のひとつは、自ら世界各地へ出かけてキリスト教の宣教活動を行うこと。当時の日本にやって来たのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルだった。

西のコンセプシオンから東のアンデス山麓にかけて広がるビオビオ地域は、温暖湿潤の農耕に適した土地柄で、イエズス会はここに教会を建て、その周囲にパンをつくる小麦とワインを造るブドウ樹を植えた。拠点となる教区はロス・アンヘレス Los Angeles(北米カリフォルニアの町と同名だがこちらの方が古い)など8つを数え、ここにスペインからの移民を受けいれた。  

もともと南米大陸にワイン用ブドウ(ヴィティス・ヴィニフェラ)は無かったから、先住民にはワイン飲酒の習慣がない。ビオビオ川以南にヴィニフェラのブドウ畑が出来するのはつい最近、1984年になってからである(あとで詳述する)。


イエズス会がアメリカに持ち込んだワイン用ブドウは、リスタン・プリエトとモスカテル・デ・アレハンドリア(そのほかにも数種類あったようだが現存していない)。リスタン・プリエトは、チリではパイス、メンドーサではクリオジャと呼ばれているが、もとはアンダルシアのブドウで、シェリーを造るパロミノ種と遺伝子が似ていると云われる。アンダルシアから、当時のアメリカ進出基地だったカナリア諸島にいったん移植され、そこからイエズス会がコンセプシオンまで運んだものだ。  

それからおよそ300年のあいだ、パイスを甕(ティナハ)に入れて発酵させたワインは、チチャとかピペーニョと呼ばれ、もっぱら自家や地場で消費された。ブドウ栽培地は灌漑の要らないコンセプシオン近郊(現在のビオビオ、イタタ、マウレ)が全体の3分の2を占めており、マウレ川以北の植栽地は限定的で、ブドウ樹を育てるための灌漑用水を確保できるところだけだった。  

19世紀半ばのブドウ栽培面積調査によると、チリのブドウ栽培面積は約3万haで、コンセプシオン近郊に2万ha、マウレ川以北の乾燥地に併せて1万ha。サンティアゴを含むマイポにはわずか2,000haで、ビオビオ川以南はゼロだった。  


さて話を本筋に戻そう。ビオビオ川より南に広がる先住民マプーチェの大地についてである。現在の行政区分でいうと「アラウカニア州」にあたる(ビオビオ州の一部も含む)。「アラウコ」はマプーチェの言葉で「泥水」を意味するといい、16世紀のスペイン軍が本国に戦況報告をする際に、先住民を「アラウコ族」と記述したことに起因すると云われる。近年、アラウコは差別語という認識が広がり、いまではマプーチェと呼ぶようになったが、州名や地名はそのまま残っている。

チリがスペインから独立した1818年以降もマプーチェの抵抗は続き、ビオビオ川以南のアラウカニアは1883年になってようやくチリに併合された。マプーチェは先祖伝来の土地を奪われ、抵抗するものの多くは殺害されたけれど、貧困と差別に抗いながら生き延びた人々も多い。そして彼らの子孫はいま、社会的地位を取り戻しつつある。

アラウカニアがチリに併合されて、すぐにこの地にブドウ樹が植栽されたわけではない。さらに100年もの歳月を待たねばならなかった。アラウカニアがブドウの栽培条件を満たしていないからではない。むしろ栽培条件は十分整っていて、寒冷な沿岸部から内陸に入れば、温暖で雨も多く灌漑の必要もない。問題はワインの飲み手がいないこと、ワイン飲酒の習慣がないことだった。



アラウカニアの州都テムコの空港から車で国道5号線を北上すると、ビオビオ川の手前右手にムルチェンの町が見えてくる。5号線をムルチェンで下り、川に向かってしばらく進むとキトラルマン農園に着く。


キトラルマン農園の高台からみたビオビオ河川敷の区画。はるか遠くにアンデスを望む。


この農園は、コンチャ・イ・トロのオーナー・ファミリーのひとつ、ギリサスティ家の所有である。もとはギリサスティ家の母方家系のガナ家が、マプーチェの去った数年後の1900年に取得した土地だという。1967年にガナ家からギリサスティ家に譲渡されたもので、長らく牧草と小麦の畑として使われていた。

ギリサスティ・ガナ夫妻は、1967年、ここに避暑のための別荘を建てた。夏になると7人の子どもたちを連れてサンティアゴを抜け出し、ここにやって来たという。7人のうち、エドゥアルドとラファエルのふたりは、現在、父の跡を継いでコンチャ・イ・トロの経営に当たっているが、彼らは、夏のビオビオ川で水遊びしたことや、たびたび点滅する自家発電機の明かりで過ごした夜のことをよく覚えているという。



キトラルマン農園をブドウ畑に変えたのは、エドゥアルドとラファエルの弟・ホセである。ホセはコンチャ・イ・トロに入社したけれど、経営に携わる兄二人とは違って、ブドウ栽培の分野を好み、それに専念した。

ホセは、子どものころから家族とともに夏を過ごしたキトラルマン農園が大好きだった。そして、ブドウ樹を育てる仕事に就くと、ブドウ樹の処女地・アラウカニアの風土こそがワイン用ブドウの栽培に適しているのではないかと思うようになった。1984年、思い立ってキトラルマン農園の一角に白のソーヴィニヨンを植えてみた。結果は上々。

この年、ドイツ人醸造家ゲッツ・フォン・ゲルスドルフからキトラルマン農園にリースリングを植えるよう薦められたホセは、カリフォルニアのUCデイヴィス校から苗木を取り寄せ、1986年にビオビオ川を見下ろす高台の区画(ルロス・デル・アルト)に植えた。


ホセ・ギリサスティが高台の23区画に植えたリースリング。


これまたとても良い結果だった。ところが当時のチリワイン産業は、誰もがカベルネ・ソーヴィニヨンとシャルドネに血道をあげていて、辛口のリースリングなどには目もくれなかった。ただ、産声をあげたばかりで進取の気象にとんだコノスルの醸造チームだけは違っていた。ホセの育てたリースリングを買って「コノスル・リースリング」を造り、世界に向かって、アラウカノの風土とリースリングの品質を問うたのである。



マルセロ・ヤニェスがキトラルマン農園の入口まで迎えに来てくれた。マルセロはこの農園の管理責任者で、ブドウ栽培に携わって41年になるという。この農園に初めてブドウ樹を植えたのは1984年だから、苗木の準備段階からマルセロとホセは二人三脚で歩んできたことになる。8年前(2014年)、ホセが57歳の若さで他界してからは、ここで二人分の仕事をこなしている。


マルセロ・ヤニェス


アラウカニアの地に初めてできたヴィニフェラのブドウ畑は、いまでは260haもの広さになった。リースリングの他に、ピノ・ノワール、ピノ・グリ、ソーヴィニヨン・ブランも栽培している。

コノスル・リースリングは世界各地で大きな評判を呼んだ。ホセとマルセロは1986年に植えたリースリングの区画をそっくりコノスルに託した。コノスルは、10年前からリースリングのラベルに、大きく「23」の文字を配している。これはキトラルマン農園の第23区画のブドウという意味だ。



リースリングのワインには、二種類の特徴的な香りがある。ひとつはミカン、スズラン、ラベンダーのような香りで、これはリナロールという芳香物質によるものだ。もうひとつはぺトロール(石油)香と呼ばれる防虫剤ナフタレンの仲間の成分に因るもので、コノスルのリースリングはリナロールの香りの強いのが特徴だ。



2017年、コノスルはビオビオ川から南へ15kmのチュムルコに212haの土地を買い、フンド・ムルチェンと名付け、2018年と2019年の二年で三度に分けてヴィニフェラを植えた。内わけは、ピノ・ノワール54ha、リースリング45ha、ゲヴュルツトラミネル34ha、ソーヴィニヨン・ブラン25ha、ピノ・グリ7ha(だと聞いたはず)。植え付けた総面積は177haだ(と聞いた)が、それぞれを足し算しても165haにしかならない。何かを聞き漏らしたようだ。耄碌してメモも取れない。困ったものだ。


痩せた赤土に植えたリースリングとピノ・ノワール。コノスル次代のエースとなるか⁉


この地の年間降水量は1,200mm。真夏の最高気温は24~25℃で夜間は10℃まで下がる。表土は赤い色の粘土質が厚いので、整地の際に水はけのパイプを埋めてある。ただ、年中、強い風が海と山から交互に吹いて、雨が降っても葉や房に湿気のこもることはない。だから黴の心配はない。遅霜の降りるリスクはあるが、2022年は霜に遭わず、無事に第1回目の収穫を終えた。ワインを試飲すると、いずれの品種も上々の出来だという。

あと数年もすると、コノスルからフンド・ムルチェン産のピノ・ノワールとリースリングがリリースされるだろう。愉しみがまたひとつ増えた。

この記事を書いた人

番匠 國男

ばんしょう くにお

番匠 國男

ワインライター。ワインとスピリッツの業界専門誌「WANDS」の元編集長。ワインと洋酒の取材歴37年。「日本ソムリエ協会教本」のチリとアルゼンチンの項を執筆。1993年のコノスル創業以来、ほぼ毎年、コノスルのブドウ畑と醸造所を訪問している。フットボール観戦が趣味。週末は柏レイソルの追っかけ。海外取材の際も時間が合えばスタジアムへ出かける。